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音楽と共に紡いだ歴史 200年の歩み
200年の歴史を振り返ると、三木楽器にとって
大切な出来事が数多くありました。
その中から特に私たちがお伝えしたいことを
抜粋して紹介します。
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書籍商「河内屋」から分家し、創業。
三木楽器 200年のはじまり。
書籍商「河内屋」から分家「河内家佐助」
として創業。「初代・三木佐助」である。
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「四代目 三木佐助」を襲名したのは、
奉公人の「松田彦七」
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八歳で「河内屋佐助」に奉公にきた松田友吉
(彦七の幼名)は、当時のおかみさんから読み書きを習ったものの、習得まで及ばずおかみさんが他界し大変苦労したようである。
その経験をもとに「同じ様な境遇で困っている人の役に立てれば」と、【手紙の読み書きを学ぶ本】を出版。一時は経営の危機に陥った河内家佐助を立て直した。その働きが評価され、養子縁組によって四代目・三木佐助を襲名。1884年より1926年まで42年にわたり代表を務め、「楽器・音楽ビジネス」を主とする現在の三木楽器の基盤を作った。
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楽器の取り扱いをスタート。
「ヤマハオルガン」販売開始。
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書籍業界の盟友、白井練一氏の紹介で、山葉寅楠氏(日本楽器(=現ヤマハ株式会社)創業者)より、ヤマハオルガンの販売の相談を受けた佐助。
この頃、「東京の学校教育の中で西洋式の唱歌教育が始まり、いずれ全国の学校教育に導入される」という情報を書籍販売を通じた仲間から得ていた佐助は、西洋音楽が日本中で広がる兆しと音楽ビジネスに将来性を感じ、ヤマハオルガンの販売を決意。店内に「楽器部」を設立した。1889年には鈴木バイオリンの販売も開始し、音楽ビジネスをますます拡大していった。(1903年にはヤマハピアノの取扱いも開始している。)
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“文明開化の音がする。”
楽器の弾き方教えます!
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「西洋楽器をより多くの方々に広めるためには、演奏方法の教育が必須」と考えた佐助は、関西地域の学校教員と保育士を対象に、オルガン・ピアノ・バイオリンの奏法を学べる1ヶ月間の「関西音楽講習会」を企画。105名もの参加者が集まり、大成功に終わった。
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「鉄道唱歌」が大ヒット!
ベストセラーの裏側で佐助が講じた
施策とは。
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東海道沿線の名勝・古跡を軽快なリズムに乗せて紹介していく人気唱歌集「鉄道唱歌」を出版。
この時代の「ヒット曲」として名前が上がることも少なくないが、そのヒットの裏側で「四代目 三木佐助」はこれらの施策を講じた。- ①有名な唱歌作詞者に作詞を依頼
- ②歌詞にあった曲を2パターン用意。
好きなバージョンで歌えるスタイルに! - ③楽隊と歌手を雇入れ、演奏しながら「鉄道唱 歌」を売り歩き
- ④国鉄とタイアップして音楽列車を仕立てて宣伝
- ⑤学校教材として取り上げられるよう働きかけ
「良いものを作り」「売るために広く報せる」
ことを実行し、発行部数10万部を超えるベストセラーに!
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楽器に次いで「蓄音機・レコード販売」へ進出。ビクターのレコード・蓄音機の取り扱いを開始。
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1879年、蓄音機(円筒式)が日本に渡来。
1920年には「ビクター」のジョバー(売捌元)の御六家として蓄音機・レコードの取り扱いを開始した。
ヤマハオルガンから始まった三木楽器の音楽ビジネスは、楽器、楽譜、教本、音楽講習会、蓄音機・レコード、ラジオと年々広がっていった。
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輸入楽器の取扱い開始。
「スタインウェイ」の日本総代理店へ。
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大正時代に入ると楽器需要はより旺盛になり、欧州留学生も増え、「西洋音楽を本場の楽器で演奏したい」というニーズも増加傾向に。
三木楽器ではこの年に、当時から最高峰ピアノとして名声の高かった【スタインウェイ】の日本総代理店となって同ピアノの販売に取り組む。もちろん比較的に手頃で品質の高い国内メーカーの商品が一番人気ではあったが、本場欧米の楽器も取り揃え、幅広い顧客ニーズに応える総合楽器店になりつつあった。
また、ピアノの他にもバイオリン、ギター、マンドリンなどの様々な商品を仕入れており、スタインウェイとの取引を機に、ドイツを中心とするヨーロッパ製の品々を輸入していった。
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合唱曲練習の定番・コールユーブンゲンの翻訳出版権を取得。
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ミュンヘン音楽学校の合唱曲練習教書でもあったコールユーブンゲン。国内ではソルフェージュや声楽学習の初歩教材として音楽大学の入試問題にもしばしば取り上げられており、現在も継続して出版されている。
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創業100周年!
今も残る本社ビル新築と、三木ホールの開館。
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創業100周年を記念して本社ビルを新築。
本社機能の拡充に加え、自店内に「音楽講習会やコンサートを気軽に開ける音楽ホール」を設置することを構想し、本店全体の建て替えが行われることになった。
完成した本店ビル(現本社屋)の3階に位置する三木ホール(収容人数150人以上)では、クラシックのコンサートはもちろん、長唄の会や、売り出し中のレコードをかける「レコード鑑賞会」、音楽以外でも「日本語を書くのに最も適する文字の組織」などが話し合われた「國字國語問題講演會」といった学問的な講演会場にも使用されていた。音楽関連講座も各種開催され、中でも佐助と親交の深かった山田耕筰氏による作曲講座は度々開催され大好評であった。
また当時、朝比奈隆の所属する大阪室内管弦楽団(大阪フィルハーモニーの前身)の練習やリハーサルにもよく利用された。
なお、翌1926年に、自店の大きな変化を見届け、四代目佐助が永眠。享年75歳であった。
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合名会社大阪開成館三木佐助商店設立。法人格を取得。
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三木ピアノ・オルガンの販売開始。
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1927年に設立された河合楽器研究所の工場で生産されたピアノ・オルガンに【S・MIKI】のブランドを付けて販売を開始。
また、1930年には同社製品の関西総代理店となった。
なお、1961年以降、三木ピアノ・オルガンは日本楽器系列での生産に移行。
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「戦後」の楽器・音楽ビジネスは…
楽器販売の重要拠点「心斎橋売店」
開設へ。
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戦後すぐ、「楽器販売・レコード販売・書籍販売」の復活を目指し、事業を再開。
1946年には楽器部を再開し、販売の拠点となる「心斎橋売店」が完成する。進駐軍施設のオルガン、余暇に使うアコーディオン・ギターなどの特需に恵まれ、「仕事終わりに仲間と盃を交わしながらギターを演奏する」など、欧米式の楽器演奏の楽しみ方に触れる機会ともなった。このことは、その後の音楽文化や楽器販売にも少なからず影響したと思われる。
続いて1947年以降、学校教育において「器楽教育の実施」が明確な目標とされ、各学校に「伴奏用の鍵盤楽器」を導入する流れとなった。これにより、「小学校にピアノを設置する」ということが教職員や生徒の父兄にとっての「夢」となり、当時高価なものだったピアノを地域住民からの募金も集め、学校に納入する事例が増えていった。レコード販売も、「リンゴの唄」などの戦後歌謡がヒットする中、次第に教育機関にもマーケットが拡大していく。
一方、「書籍販売」では、戦前に行っていた国定教科書の販売を、戦後GHQの厳しい検閲の下断念せざるを得なくなった。このタイミングで、楽器販売により注力する様になった。
1950年代に入ると、戦後の復興期から新しい時代に突入。大阪の街も、キタ(オフィス街)ミナミ(歓楽街)の繁華街が栄え、道頓堀にも賑わいが戻る。ミナミの繁華街に近い「心斎橋支店(分店)」も、街の賑わいと共に活気付いていった。
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株式会社に組織変更、
「三木楽器株式会社」と改称。
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高度経済成長が始まり、三木楽器も新たな成長段階へのステップアップを図る。
「合名会社三木佐助商店」から「三木楽器株式会社」に改組し、名実ともに個人商店から会社組織へ移行した。
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心斎橋店新社屋
(地上4階・地下2階)完成。
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1965年以降、日本経済は好景気に入り、大阪は日本屈指の大都市として東京と共に発展を続けた。三木楽器では、周りの商店街の高層化と心斎橋界隈の高級店化に伴い、戦後すぐに建てられた心斎橋店の建て直しを行う。
2階建ての木造建築物から、地上4階・地下2階の6フロアにまたがる大型楽器店に生まれ変わり、2016年の建て替えまで、三木楽器の旗艦店としての役割を担い続けた。オープン当初の取扱い商品は、【管弦楽器・フォークギター・エレキギター・ギターアンプ・ドラムセット・ウクレレ・コントラバス・ピアノ・電子オルガン・楽譜】と多岐にわたり、2階には【テレビ・ステレオ・レコード】さらに地下1階にはビクター専用のショールームが設けられた。また、4階には「ミュージックロビー」と名付けられた談話スペースが設けられ、ミニコンサートが行われることもあった。
心斎橋筋商店街内、心斎橋駅すぐの立地にも恵まれ、この大型楽器店は長年に渡り多くのお客様にご愛顧いただいた。
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天王寺駅前アポロビルに
LM(ライトミュージック)専門店を初出店。
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1970年頃の楽器店は、個人宅をまわる「ピアノの訪問販売」が大きなウエイトを占めていたが、この当時、グループサウンズやロックバンドが人気を博していたことをふまえ、LM(ライトミュージック/軽音楽)専門の新店舗を企画。天王寺駅前のアポロビルに出店する。
出店当初は客足が伸びなかったが、お客様による店内スタジオでのコンサート、近隣の中学・高校の軽音楽部への特別販売などを行い、次第に多くのお客様にご利用いただけるようになっていった。
そして、80年代後半から一世を風靡したバンドブームの中で、当時商業価値が高まりつつあった梅田エリアに本格的なLM総合楽器店「梅田店」をオープン(1992年)。次いで1994年に、定番のLM商品販売だけではなく【中古ヴィンテージ楽器の売場】【貸しスタジオ】【ヤマハポピュラーミュージックスクールの音楽教室】も設け、楽器販売と音楽サービスを両立させた「アメリカ村店」をオープン(アポロ店の移転リニューアル)。また、「社会人バンドウォーズ」というイベントも1992年にスタート。LMジャンルが勢いを増し、のちの三木楽器を支える主要ジャンルに成長していった。
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高校軽音楽部大会
「We are Sneaker Ages」開催。
(現在の関西大会のはじまり)
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アポロ店で軽音楽部への楽器販売を行う中で、軽音楽部には目標とする学校外の大会がないことを知ったスタッフが、大阪郵便貯金会館を貸し切って軽音楽部のためのコンクールを開催し、9校が参加。800名のホールは出演校の部員や保護者で満員となり、軽音楽好きのお客様で埋め尽くされた。これが現在も続く「スニーカーエイジ」の第1回目である。
その後も関西を中心に大会を続けてきたが、37年目にあたる2016年に、関西外で初となる「関東大会」を実施したことを皮切りに、徐々に開催エリアを拡大。2021年には各地域ごとに行っていた大会を全国大会化した。
「全国ネットでのTV特番放送」「男性ボーカルグループGReeeeN(現GRe4N BOYZ)によるテーマソングの書き下ろし」など、メディア・アーティストにも応援をいただき、2022年には文部科学省の後援のもと、グランプリ受賞校に文部科学大臣賞が授与されることとなった。第1回大会から45年経った今も、「バンドの大会ではなく、軽音楽系クラブの大会」というコンセプトを大切に、全国の軽音楽部の目標となる大会を目指して運営を続けている。
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心斎橋店「ハーモニーパーク」開設
大人も楽しめるエレクトーン教室を
目指して。
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1980年、エレクトーンの実演と販売、簡単なレッスンを行う売場を備えた「エレクトーンハウス」を心斎橋店で開始。現在も心斎橋店1階で行われているエレクトーンのデモンストレーションのスタイルは、ここから始まった。
1983年には、同じく心斎橋店の3、4階を「ハーモニーパーク心斎橋三木」というエレクトーン・ピアノの専門教室に改装。当時「幼児の教育楽器」との印象が強かったエレクトーンを大人の方にも楽しんでいただくため、レッスン仲間との交流を楽しむことができるカフェカウンターの設置や、社会人でも通いやすいチケット制を取り入れた、『エレクトーンを知り、学ぶ場所』として浸透していった。
同時期に、心斎橋店の店内ミニライブ「Live At Miki」をスタート。プロミュージシャンの演奏を年に10回ほど行い、エレクトーンのビギナー層から講師・プレイヤーまで、幅広いエレクトーンファンを惹きつけるイベントとして現在も続いている。
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本社屋(大阪開成館)が
国登録有形文化財に登録。
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創業100周年を記念して1925年に完成した三木楽器本社ビル(大阪開成館)。
太平洋戦争当時、大阪市内が焼け野原と化して大きな打撃を受ける中、コンクリート造りだった当ビルは火災を免れ、戦火を生き残った貴重な建築物となった。
その後、1989年に老朽化対策のため大規模改修工事を行うなど、必要な修繕は都度行っているが、主立った外観は建設当時のまま残しており、1997年、大阪城天守閣とともに国登録有形文化財に登録された。
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二十一世紀を目前に控えての誓いと、
新たな事業へのチャレンジ。
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戦前のビクター時代から音楽メディアを扱っていた三木楽器としては思い入れの強い事業だった「レコード(CD)事業」を社外情勢の変化をふまえて終了。
一方、当時楽器店で取り扱うことの珍しかったDJ機器の扱いを開始し、これまで大阪にはなかったDJ機器専門店「DJ’S」を、アメリカ村の心斎橋BIGSTEPに出店。
また、本社ビルのリニューアルを行い、1階にピアノ販売フロア、2階にコンサートホールを設置。ピアノ専門店へと姿を変え、「開成館」と名付けた。「開成館」は旧来「本の出版・卸・販売」を行う「書籍部」の名称であり、書籍商として始まった三木楽器にとっての伝統のある名称であった。
この名称をピアノ専門店の名前として使い、21世紀へのスタートを切った。
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多彩なジャンルの音楽を学べる
“大人の音楽教室”
「MIKIミュージックサロン心斎橋」オープン。
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管楽器、弦楽器、ギター、コーラスを筆頭に、あらゆるジャンルを網羅する多彩なコース展開と、シックな内装や利便性の高い立地で、大人のお客様に特化した「MIKIミュージックサロン」がこの年にスタート。
まだ音楽教室といえばお子様向けのイメージが強い中、大人向けの音楽教室を大規模(当時135坪・西日本最大級)に展開することは大きなチャレンジであったが、多くのお客様にご愛顧いただき、のちに拠点を増やし、現在は心斎橋に加え、梅田・西梅田・なんばパークス・三宮の計5会場で教室を展開している。
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海外の商品買い付けの重要拠点。
米国に現地法人を設立!
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2002年、米国カリフォルニア州に現地法人「MIKI Musical Instruments USA Corporation」を設立。
これにより、それまでは間接的に買い付けていたヴィンテージ品を直接売主から買い付けることができるようになり、また、米国各地のギターショーなどでも買い付けを行い、国内の三木楽器各店で販売するギター・電気ピアノ(フェンダー・ローズやウーリッツァーなど)・ドラム等を仕入れた。
その後も大手メーカーだけでなく、海外の手工家の作品の買い付けも積極的に行っており、現在の「三木楽器らしさ」にとってMIKI USAは欠かせない存在となっている。
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店舗展開の新機軸。
専門店を次々とオープン。
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1999年の「DJ’S」出店を皮切りに、「ジャンル専門店」としての展開が進み始めた三木楽器。
「アメリカ村店」は2004年から徐々に中古ギター、ヴィンテージギターを中心とした商品ラインナップに移行し、現在はエレキギター専門店に。LM系の総合楽器店としてスタートした「梅田店」も2005年より徐々にギター専門店の色を強め、2009年に同店のドラムフロアを独立させたドラム・打楽器専門店「DrumCenter」を出店するとともに、「GUITAR PRO SHOP」と位置付けた。
その後も2014年に「LOW BRASS CENTER(低音管楽器専門店)」を出店するなど、専門的な知識に富んだスタッフと商品ラインナップ・イベントの企画で、それぞれの楽器ユーザーの皆さんにより深く楽しんでいただくための店舗展開が始まった。
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旗艦店・心斎橋店の建て替え工事をスタート。
「総合楽器店」から、新たなステージへ。
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長年に渡り三木楽器の旗艦店としての役割を担ってきた心斎橋店を、老朽化に伴い建て替え工事を開始。楽器部創設時から取り扱っている鍵盤楽器をはじめ、管楽器、LM系楽器、楽譜など、様々なジャンルの楽器が集まる「総合楽器店」としての役割を終えた。
この建て替えを機に、心斎橋店内の各フロアを独立させ、2016年「MIKIBASSSIDE(ベース専門店)」「Acoustic INN(アコースティックギター・ウクレレ専門店)」「Wind Forest(管楽器専門店)」と各ジャンルの専門店をオープン。
なお、心斎橋店は2018年11月に建て替え工事を完了し、ピアノ&エレクトーン専門ショップ&スクールとしてリニューアルオープン。三木楽器らしさのひとつといえる、エレクトーンハウスでのデモンストレーション演奏は、建て替え前と同じ場所で再開した。
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東京・御茶ノ水エリアに
「Smalls guitar shop(ギター専門店)」出店。
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三木楽器としては創業198年で初となる東京出店。世界のトップルシアーがつくる手工品、世界中から集めた良質なヴィンテージなど、魅力あふれるギターを最高のコンディションで提供することにこだわり、小さいながらも三木楽器らしさを詰め込んだギター専門店が誕生。
オープンから1年が過ぎ、Smallsが三木楽器の新たな出会い・チャレンジの拠点になりつつある。
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